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アイラ&ジョージ・ガーシュイン
左が兄のアイラ 右がジョージ・ガーシュイン
 
フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのポスター
フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース
 
ポギーとベス
ポギーアンドベス
 
スワンダフル
スワンダフル
 
フレッド・アステアのポスター
フレッド・アステアのポスター

 


         § ガーシュイン・スイート §

私がマンハッタンで住んでいるアパートの名前である。名前の由来はもちろんニューヨークが生んだ、かの偉大な作曲家ジョージ・ガーシュイン。だからアパートの玄関ロビー、各階のエレベーターホール、そしてアパート内にあるジムにまで彼の作曲した楽譜や宣伝ポスター、そして在りし日の華々しい写真などが飾ってある。

アパートの前の道路はウエスト50ストリート、別名ガーシュインウェイ、向かいはガーシュイン劇場、ともかく周りはガーシュインだらけ、おまけに市内にはガーシュインホテルという小奇麗なシティホテルまである。 何故こんなにガーシュインかというと、それは彼がニューヨークの生んだ、とてもアメリカっぽい作曲家だからではないだろうか。

ロシア系ユダヤ人の貧しい仕立職人の息子として生まれた彼は、6歳の頃に街角の自動演奏のピアノから流れていたルービンシュタインの曲を聞いて音楽に目覚めたといわれる。しかし自宅にピアノはなく友達の家に行ってはピアノを弾き、10歳にも満たない年で既に自作のメロディーも演奏していたそうだ。だから彼が12歳の時、音楽好求[ビンシュタインの曲を聞いて音楽に目覚めたといわれる。しかし自宅にピアノはなく友達の家に行ってはピアノを弾き、10歳にも満たない年で既に自作のメロディーも演奏していたそうだ。だから彼が12歳の時、音楽好きの両親が彼の優等生の兄アイラに買い与えたピアノを、見向きもしなかった兄に代わって演奏し始めたのを見て両親は大変驚き、そしてそれから彼は音楽教育を受けることになる。(文学好きの兄は後年、弟ジョージの音楽の作詞を手がけ、二人で組んで大活躍する)

12歳からの音楽教育というのははっきり言って遅い。モーツアルトを聞かせて胎教、よちよち歩き出すとリトミック3歳になると楽器に触れさせ、さらに裕福な家庭であれば何とか大学の教授について英才教育を施す、12歳になる頃には有名なコンクールをいくつか制覇し、天才ピアニストと銘打ったリサイタルだって開いている、そういうことが決して稀有なことではない日本の音楽教育界の体質と比べれば、断然遅い。

それなのに、貧しく育ちやっと本格的な音楽教育を受けられるようになったのが12歳であったにも拘わらず、後世に名を残すまでになった彼には、アメリカ人の好むアメリカンドリームの匂いがぷんぷんである。

「胎教、リトミック、3歳で楽器」まではなんとかなぞったものの、「モノにならぬ我が子」を「裕福な家庭で」なかった庶民の身にかこつけて諦めていたものが、才能があれば12歳からだって花開く、こんなアメリカンドリームを見せ付けられると、「ニッポンの母」の立つ瀬がないではないか。こういう時の為に「瓜の蔓に茄子はならぬ」という諺があるのだろう。いや待てよ、「鳶が鷹を生む」というのもあるし…とますます瓜2号を見る目が険しくなる。おっと、つい愚痴っぽくなってしまった、何だっけ、そうそうジョージ・ガーシュインでした。

彼が師事した先生は彼にクラシック音楽を教え込んだ。しかし彼は同時にポピュラー音楽も愛し、高校へは行かず15歳でソングプラッガー(音楽出版社の新曲宣伝ピアノ奏者)として音楽界にデビューする。数年後には作曲家に転向し、そして21歳の時にあの有名な「SWANEE」の大ヒットを飛ばすのである。

そう言えば私が小さい頃、洋楽好きの母のコレクションの中に江利チエミのレコードがあって、小さいながらも聞き覚えで『スワニー ハワラビハワラビ マーデオ スワニー』と歌っていたけれど、“Swanee How I Love You, How I Love You, My Dear Old Swanee”と言ってたのか。

フレッド・アステアやジンジャー・ロジャースのタップダンスの映画が好きな母の傍で『スワンダホー』(正しくは’S Wonderful)も耳にしていたから、あの頃既に私はジョージ・ガーシュインと出会っていたことになる。あのまま父の村田英雄を聞かずに洋楽だけを聞き続けていたなら、ひょっとしたらウタダもマッツァオの「昭和の歌姫クッキー」になっていたかも知れぬ、惜しい……!いけない、また話が逸れた。

このようにポピュラー界で大成功を納めた彼は1924年、「ラプソディー・イン・ブルー」を発表してクラシック界でも認められるようになる。その後、「パリのアメリカ人」、オペラ「ポーギーとベス」などを次々と発表したが、忙しさが祟ったのか38歳の若さでこの世を去ることになる。

1898年生まれのジョージ・ガーシュイン、生誕100年にあたった1998年には各地で彼にまつわる音楽祭が盛大に開かれたそうだ。自分では楽譜が書けず、ラベルに師事しようとしたら、「二流のラベルになるより、一流のガーシュインになれ」と励まされたというガーシュイン。今日、彼は誰の亜流でもなく、紛れもなくジョージ・ガーシュインその人として、世界中の人に愛されている。

 


 

 


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